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1-1 大川青年との最初の出会い

2009/12/14 06:08  Category:「虚業教団」 関谷晧元

 第1章  ささやかな、けれども爽やかな第一歩


 大川青年との最初の出会い

 一九八九年(平成元年)の夏、私はロンドンに滞在していた。そこから東京の幸福の科学本部事務局宛に、一通の封書を出した。封書には、〈幸福の科学〉 への別れの挨拶ともいえる私の辞表が入っていた。
 この別れに、淋しさがなかったと言えば嘘になる。
 自分は 〈幸福の科学〉 を創りあげた一人である、という自負があった。人生を懸け、ともに歩んできた三年半。時間としては短いかもしれない。しかし命懸けでのめり込んできた日々は、私には長く、重いものだ。
 それまで私は自動車販売会社を経営していた。同業者からも羨ましがられたほど順調だった会社を人に譲り、自社ビルは売却した。 妻子とも気まずく別れることになった。 主宰・大川隆法に強制されるかたちで、"神託結婚" もした。それでもまだ、人生を懸けたと言うにしては、三年半は短過ぎるだろうか。
 そのような会との別れは私の胸を締めつけた。                        
 しかし一方では、晴々とした気分だった。

 ロンドンの空は、連日爽やかに晴れ渡った。お世話になったイギリス在住の T さんによると、ロンドンでこんなに快晴が続く年は非常に珍しいという。抜けるようなその青空に似た清々しさを、私は一人噛みしめていた。
 "これからは一人で充分だ。一人で修行を重ねていこう"
 軽やかな陽射しを浴びながら、私はロンドンの街を、公園を歩きまわった。その心をさまざまな思いが心をよぎる。

 "幸福の科学は、ほんとうに幸福を科学したのだろうか。会員は幸せになれただろうか。職場や家庭で、彼らは真に素晴らしき人になり得ているのだろうか"
 "碓かに愛の理論はあった。だが、愛の実践はともなっていたか ……"
 "会員を集めることに走り、最初の志を忘れてきたのではあるまいか"
 東京にいたときも、繰り返し浮かんできた問いである。

 一ヵ月の休暇を無理やりもらってイギリスヘ渡ってきたのは、三年半の激務でボロボロになった体の治療が目的だった。それは、遠く離れて会を見つめなおすいい口実になった。遠くに立ち、胸にわだかまるいくつもの問いに答えを出したかったのである。
 一日置きに治療を受けに通った。そのあい間にハイドパークの公園へ出かけるのが、いつしか私の楽しみになっていた。陽射しに暖められた柔らかな芝生に体を横たえ、胸一杯に新鮮な空気を吸う。ちょうど日本の初夏のようで、あちこちに陽炎が踊っていた。

 会で重責を背負っているときは、何かに憑かれたように、いつも忙しく動きまわっていた。自然とゆっくり接することもなかった。会の方針や自分のかかわり方についても、落ちついて考えるヒマもなかった。 しかし、こうして遠くから眺めてみると、大川隆法という人物や 〈幸福の科学〉 が次第に見えてきた。
 絶対と信じ切っていたものが、今は陽炎のように揺らいでいた。
 "私の辞表に大川先生は何を思うだろうか"
 そんな思いも幾度となくわいてきた。
 私と大川隆法の最初の出会い。それは三年前にさかのぽる。
 ──

 正確な日付は忘れたが、八六年の確か四月下旬だった。
 私はその日、新宿七丁目の割烹料理店「作古」の二階で、一人の青年と向き合っていた。青年は肉付きのいい体に背広を着て、座敷の上座に座っていた。彼の名は中川隆。後の〈幸福の科学〉主宰、大川隆法である。
 当時は、総合商社トーメンの東京本社国際金融部に勤めるサラリーマンだった。東大卒、大手商社社員という経歴はエリートと呼べるだろう。その一方では、善川三朗編の『日蓮聖人の霊言』 『空海の霊言』 に登場する "霊能力者" でもある。しかし、その名前はまだ世間にほとんど知られていなかった。
 エリート・ビジネスマンと霊能力。この取り合わせは、今までの宗教にない、新しい何かを感じさせた。

 私もすでに、この二冊の霊言は読んでいた。むろん、現在のように書店にコーナーがあったり、ベストセラー入りすることもなかった。その頃、私が通っていたヨガ教室の先生に勧められ、何気なく手にしたのである。
 じつに奇妙な本だった。日蓮や空海の霊が、大川隆法なる人物の口を借り、宗教の本質や天上界の様子を語って聞かせる。一種の霊界通信である。その内容は、現世的なご利益を求める従来の宗教とは明らかに違っていた。
 事業がある程度成功し、お金には不自由ない生活の中で、当時の私は何か満たされないものを感じていたのだと思う。この本は、そんな私の心に強く訴えてきた。
 "宗教とは、こんなにすごいものだったのか"
 素晴らしい精神世界の一端に触れた気がして心臓が高鳴った。
 大川隆法に引き合わせてくれたのも、このヨガの先生、中原幸枝だった。
「大川さんは大変な霊能力を持つ、偉大な先生なんですよ」
 彼女は常々そう言っていた。

 あの頃、中原は都内に二〇ヵ所近いヨガ教室を持っていた。何冊の自著も出版されていた。この世的な成功にも、異性にも一切目をくれず、一途にヨガの修業に打ち込んでいる彼女には、何か突き抜けたような爽やかさがあった。ひと言で言い表すなら"尼さん"が一番ピッタリかも知れない。整った顔立ちも手伝い、ヨガ教室のスタッフや生徒には男女を問わず中原信奉者が多かった。
 中原は大川隆法を前にして、いつになく興奮していた。
 だが私の目には、この小太りの青年はごくありふれた若者の一人としか映らなかった。これがほんとにあの大川隆法なのか……。霊言を読み、どんなにかすごい霊能力者が現れるかと期待し、恐れてもいた私は少々意外だった。
 私の会社の番頭格で、やり手の営業部長だった I とどこか似ていた。年長者の私をさし措き、平然と上座に座るところも I を思わせた。しかしそれも、この年代としては、まあ普通のことだろう。
 私も中原にならい、青年を「先生」と呼ぶことにした。

 大川も中原も酒には口をつけなかった。私だけがときどき杯を口に運んだ。
 話の端々から、青年の頭のよさが感じられた。こういう人材を持った会社は、営業成績をぐんぐん伸ばしていけるだろうな、と私は思ったのを覚えている。長年営業畑を歩いてきた私は、有能な営業マンとしてバリバリ仕事している彼の姿を、すぐイメージすることができた。
 仏陀の生まれ変わりである主宰先生を営業マンにたとえるとは何事か、と 〈幸福の科学〉会員には叱られそうだ。しかし、悲しいかな、これが長年の仕事によって培われた、私のカンである。
 幸か不幸か、このカンは外れてはいなかったようだ。精力的な会員獲得戦略と、その結果として爆発的に増えた会員数を見れば、あのカンはまさしく的中したことになる。
 その年の男性にしては高い声で、大川青年は理路整然と澱みなくしゃべった。「先生の目は冷たい」というのが、私がいた頃の教団職員の一致した見方だったように記憶するが、そんな冷たさも感じなかった。笑うと、いかにも田舎の青年らしいはにかみが浮かんだ。

 私に失望があったとしたら、その目に "ある種の眼差し" が欠けていたことである。偉大な芸術家や霊能力者が持つ、奥行きのある神秘的な眼差し。残念ながら彼の目には、その眼差しがなかった。中原は「大変な霊能力」と言ったが、大川の前に座っていても、自分の一切を見抜かれてしまうような恐れは感じなかった。
 要するに、頭のいい、平凡な青年というのが私の第一印象である。
 "そんなはずがない。あれだけすごい霊言をするのだから、私などには到底うかがい知れない何かがあるに違いない。きっと、特大の超能力者なのだ "
 そんなふうに考えてみた。"そんなはずがない。きっと……" という思いを、私はこれ以降、三年半のあいだに何十回、何百回と抱くことになった。だが、あのときはそんなことなど思いもしなかった。

 やがて、神理探究の学習団体をつくろうという方向へ話題は進んでいった。
「大川先生には五〇〇人もの高級霊が降りてくるんですよ」
 と中原は言った。
「世の中の宗教団体は、そのうちの一人を神として拝んでいるんです。どれもこれも、ご利益をもらえると説く宗教ばっかり。私たちは新しい時代へ向けて、本当の神のみこころを学習する集団をつくりたいんです。是非、つくっていきましょうよ!」
 座敷にいたのは二時間ほどだったと思う。
 私が支払いを済ませ店を出ると、四月下旬というのに夜気は思いのほか冷たかった。しかし、そんなことなど気にならないほど私は高揚していた。神のみこころを学習する団体! ── この言葉を心の中で何度も繰り返しつぶやいた。
 大川隆法、三〇歳。中原幸枝、年齢不詳。私が五一歳。三人ともまだ若かった。
 この夜から、何かが動きだしたのである。



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