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1-3 八六年十一月 ── 発足記念座談会
2009/12/14 06:11 Category:「虚業教団」 関谷晧元
第1章 ささやかな、けれども爽やかな第一歩
八六年十一月 ── 発足記念座談会
いよいよ会として、第一回の会合を開くときがきた。 「幸福の科学発足記念座談会」がおこなわれたのは、この年の十一月二十三日である。場所は、中原ヨガの教室があった日暮里の酒販会館。後の 〈幸福の科学〉のイベント会場が、あの東京ドームであることを考えると、いかにも慎ましく、ささやかな出発だった。
私は大川と中原をクルマに乗せて会場へ向かった。不慣れな道のために、予定時間を少しオーバーして到着した。はじめての会合を前にして、大川は不安だったようだ。テープに霊言を吹き込むことはあっても、大勢を前にして話す経験はなかったから当然だろう。気持ちを落ち着けたいという大川の提案で、三人は喫茶店で一服してからビルの四階にあるヨガ教室へ上がった。
会場は、会員の手できれいに飾りつけられていた。手作りの暖かさに私はホッとし、会の成功を確信したのを覚えている。
左端に屏風が立ててあり、大川と中原はその陰へ入った。ビデオ録画を担当することになっていた私は二人と別れ、聴衆の後ろから演壇ヘカメラを構えた。
そこには、七、八〇人が集まっていた。
まず司会役の中原が登場し、開会の挨拶をした。
彼女はかなり緊張し、アガっているように見えた。最初は言葉もしどろもどろだった。しかし最大級の賛辞で大川を紹介することは忘れなかった。内容はもう覚えていないが、 一つだけ強く印象に残っている言葉がある。
「大川先生が誰の生まれ変わりか、いずれわかるときがくると思います」
中原の紹介を受けて、大川本人が登壇した。
いよいよ大川隆法先生の第一声。霊言集の偉大な霊能力者が何を語り出すかと、聴衆は固唾をのんだ。カメラを支える私の手も思わず力が入った。
大川主宰は、しかしアガっていた。少なくとも私にはそう見えた。後に何千人、何万人を前にして堂々と演説する大川の姿ではなかった。話がどこか上滑りしている。誰も笑わないような冗談を言って、一人おかしがっている。
「炎を見て、モーゼは炎を見て火事だと思うんですね。でも一一九番できないんですね。電話がないから …… アッハ、ハ」
人間ならアガりもするだろう。私はむしろ、そんな大川隆法に親しみをおぽえる。
その日は、GLA 教団の教祖である故・高橋信次の霊の指導を受けて講演すると、前もって間いていた。生前の高橋信次の講演は、私もよくテープで聞いた。早口だが、張りのある高橋の声は、言霊(ことだま) と呼ぶにふさわしい威厳とパワーに満ちていた。
テープで聞く高橋の早口を、大川はマネしているように聞こえた。
"おかしいな" と私は思った。"霊言を収録するときは、信次先生の魂が大川先生の肉体を自由に支配するのだから、ここでも、そうされたらいいのに。 霊言と指導が違うなら、なにも信次先生のように早口になる必要はないと思うけれど ……"
心の中でこうつぶやいた。
"やっぱり、大川先生ご自身のお考えで話されているのかな"
しかし講演の内容は素晴らしく、誰もが霊的世界を実感できるようなものだった。
会場には、やがて 〈幸福の科学〉 の局長となる細田勝義、大沢敏雄らもいた。後に四代目の活動推進局長になる大沢が最後部から、熱血漢らしい質問をぶつけていたのを思い出す。創価学会の会員集めに辣腕を振るったと言われ、〈幸福の科学〉 でも八九年からの拡大路線では強力な推進力となった人物である。
その大沢が、「リュウホウ先生、リュウホウ先生」としきりに発言した。
それまで "大川隆法" は、大川タカノリであった。本にもそう書かれていたし、私たちもそう呼んでいた。しかしこの日の大沢の発言をきっかけに、タカノリはリュウホウに変質していったのである。
ともかく、発足記念座談会は成功に終わった。帰りはレストランで食事し、今日の話題に花を咲かせた。大川も中原も私も一様にホッとしていた。これから楽しいことがはじまりそうだ …… 私は嬉しくてしかたなかった。
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第1章 ささやかな、けれども爽やかな第一歩
八六年十一月 ── 発足記念座談会
いよいよ会として、第一回の会合を開くときがきた。 「幸福の科学発足記念座談会」がおこなわれたのは、この年の十一月二十三日である。場所は、中原ヨガの教室があった日暮里の酒販会館。後の 〈幸福の科学〉のイベント会場が、あの東京ドームであることを考えると、いかにも慎ましく、ささやかな出発だった。
私は大川と中原をクルマに乗せて会場へ向かった。不慣れな道のために、予定時間を少しオーバーして到着した。はじめての会合を前にして、大川は不安だったようだ。テープに霊言を吹き込むことはあっても、大勢を前にして話す経験はなかったから当然だろう。気持ちを落ち着けたいという大川の提案で、三人は喫茶店で一服してからビルの四階にあるヨガ教室へ上がった。
会場は、会員の手できれいに飾りつけられていた。手作りの暖かさに私はホッとし、会の成功を確信したのを覚えている。
左端に屏風が立ててあり、大川と中原はその陰へ入った。ビデオ録画を担当することになっていた私は二人と別れ、聴衆の後ろから演壇ヘカメラを構えた。
そこには、七、八〇人が集まっていた。
まず司会役の中原が登場し、開会の挨拶をした。
彼女はかなり緊張し、アガっているように見えた。最初は言葉もしどろもどろだった。しかし最大級の賛辞で大川を紹介することは忘れなかった。内容はもう覚えていないが、 一つだけ強く印象に残っている言葉がある。
「大川先生が誰の生まれ変わりか、いずれわかるときがくると思います」
中原の紹介を受けて、大川本人が登壇した。
いよいよ大川隆法先生の第一声。霊言集の偉大な霊能力者が何を語り出すかと、聴衆は固唾をのんだ。カメラを支える私の手も思わず力が入った。
大川主宰は、しかしアガっていた。少なくとも私にはそう見えた。後に何千人、何万人を前にして堂々と演説する大川の姿ではなかった。話がどこか上滑りしている。誰も笑わないような冗談を言って、一人おかしがっている。
「炎を見て、モーゼは炎を見て火事だと思うんですね。でも一一九番できないんですね。電話がないから …… アッハ、ハ」
人間ならアガりもするだろう。私はむしろ、そんな大川隆法に親しみをおぽえる。
その日は、GLA 教団の教祖である故・高橋信次の霊の指導を受けて講演すると、前もって間いていた。生前の高橋信次の講演は、私もよくテープで聞いた。早口だが、張りのある高橋の声は、言霊(ことだま) と呼ぶにふさわしい威厳とパワーに満ちていた。
テープで聞く高橋の早口を、大川はマネしているように聞こえた。
"おかしいな" と私は思った。"霊言を収録するときは、信次先生の魂が大川先生の肉体を自由に支配するのだから、ここでも、そうされたらいいのに。 霊言と指導が違うなら、なにも信次先生のように早口になる必要はないと思うけれど ……"
心の中でこうつぶやいた。
"やっぱり、大川先生ご自身のお考えで話されているのかな"
しかし講演の内容は素晴らしく、誰もが霊的世界を実感できるようなものだった。
会場には、やがて 〈幸福の科学〉 の局長となる細田勝義、大沢敏雄らもいた。後に四代目の活動推進局長になる大沢が最後部から、熱血漢らしい質問をぶつけていたのを思い出す。創価学会の会員集めに辣腕を振るったと言われ、〈幸福の科学〉 でも八九年からの拡大路線では強力な推進力となった人物である。
その大沢が、「リュウホウ先生、リュウホウ先生」としきりに発言した。
それまで "大川隆法" は、大川タカノリであった。本にもそう書かれていたし、私たちもそう呼んでいた。しかしこの日の大沢の発言をきっかけに、タカノリはリュウホウに変質していったのである。
ともかく、発足記念座談会は成功に終わった。帰りはレストランで食事し、今日の話題に花を咲かせた。大川も中原も私も一様にホッとしていた。これから楽しいことがはじまりそうだ …… 私は嬉しくてしかたなかった。
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