QHS



外部リンク (画像) 文芸春秋の敗訴確定 性の儀式で「幸福の科学」に謝罪 2015年
http://0w.blog.jp/archives/67257482.html (ΦωΦ) へ(のへの)

1-5 真摯だった発足記念講演会

2009/12/14 06:13  Category:「虚業教団」 関谷晧元

                    第1章  ささやかな、けれども爽やかな第一歩

 真摯だった発足記念講演会

 かねての予定通り、徳島から善川三朗顧問が上京してきたのは、会社の創立二〇周年パーティーが終わって三日後、三月六日のことだった。その二日後には、 "幸福の科学発足記念講演会" が迫っていた。
 ここで、大川主宰と善川顧問の関係に触れておかなければならない。
 すでにお話ししたように大川隆法の初期の霊言集は、大川の著作としてではなく、善川三朗編として上梓されている。善川と、大川の兄にあたる富山誠の質問に、大川に降りた日蓮や空海の霊が答えるという問答形式である。
 世間では、霊言がホンモノの霊の言葉なのか、それとも大川の言葉なのかを取り沙汰している。だが、私にはどちらでもよかった。この点では中原幸枝や、ほかの初期の会員より醒めていたのかもしれない。

 霊の言葉か自分の言葉か、たぶん大川隆法自身にもわからないだろう。
 霊言集には、これまでの聖人の教えやその意義が、まったく新しい角度から光をあてられ、万教帰一、ただ一つの神理という視点で、わかりやすく書かれていた。この世的な価値である金とか名誉、地位を超える壮大な霊的世界! それで充分だった。大川隆法を先生と仰ぎ、素晴らしい神理をもっともっと学んでみたかったのである。

 ところで、〈幸福の科学〉 に関心をお持ちの方はご存じと思うが、善川三朗というのは大川の父、中川忠義のペンネームである。 富山誠は兄の中川力にあたる。
 理由はわからないが、大川は意識的にこの事実を隠していた。親子ではあまりにも世俗的だ。四国のどこかで、たまたま善川が出会った不思議な霊能力者。そんな神秘的な演出がねらいだったらしい。このことは、大川のごく身近にいた私たちでさえ、しばらくは知らなかったぐらいである。

 八七年九月に一通の手紙が私の会社へ送られてきた。差出人は、「幸福の科学」拝読者となっていた。
 「大川隆法という人物が同じ四国出身というだけで素性がわからないことに、『不思議だなぁ』 と思い、『人の魂を救う者がそれで責任が果たせるか』 と思っていました。また、『大川隆法』 という人物と 『善川三朗』 そして 『富山誠』 のこの三人がいかにも劇的な出会いをされたかのように言うが、それはほんとうだろうか」

 疑問を抱いた拝読者氏は、労もいとわず大川の身元を調べ、その結果を驚きとともにこんなふうに書いている。
「私も驚きました。本当に親子だったのです。なぜ心・魂等を説く人間が自分の素性を隠して、実の父と子であることを隠してこんな芝居をする必要があるのでしょうか」
 さらにご丁寧にも中川家のあまりかんばしくない近所の評判まで書いてある。
 会が大きくなれば、当然こんなことも起こってくる。大川も善川も、霊言集の出版を思いついた頃は、今日のような大教団をつくるなどとは考えもしなかったのだろう。それで、二人の関係を劇的に、神秘的に創作してみた。たぶん、そんなところだろう。

 話をもとへ戻そう。
 中原幸枝に依頼され、講演会の二日前に徳島から上京した顧問を羽田に出迎えた。
 純朴な田舎の老紳士、というのが善川三朗に対する私の印象である。このおっとりした先生が、あのようにすごい神理の本を善かれるのか。それが、私にはひどく嬉しかった。さすがにホンモノは淡々としていると感じ、いっぺんに好きになった。
 "神理を求めたから、このような偉大な先生と直接お話しすることもできる"
 そう考え、自分はなんという幸せ者だろうと感謝した。
 私は大喜びで料理屋へ接待した。
 "明日は、中原の自宅にできた事務所も見ていただこう。その次の日は、いよいよ記念すべき講演会だ。いったいどんな講演会になるのだろう"
 楽しさで胸がワクワクしていた。

  sk39p1.gif

 翌日の夜は、東京では珍しい大雪になった。しかし講演会当日の朝はカラリと晴れ、降り積もった雪に朝の陽が眩しく反射していた。
 雪に気をつけながらベンツを走らせ、まず中原の自宅へ。そこで中原を拾い、大川、善川両先生を迎えに行くはずだった。しかし、待っているはずの中原の姿がない。玄関のべルを押したが返答もない。待ち合わせの時間は刻々と近づいてくる。しかたなく、先に両先生を迎えに行った。
 後になってわかったことだが、緊張のあまり前夜寝つかれなかった中原は、私が押したベルの音にも気づかず、まだぐっすりと寝ていたのである。

 会場の牛込公会堂には、四〇〇人ほどの聴講者が入っていた。四〇〇人! 大成功ではないか。大雪を押して集まった人々の熱意に私たちは感動した。

  sk41p2.gif

〈幸福の科学〉の初期の講演会では、今と違い、講師はいつも大川隆法、善川三朗の二本立てだった。しかしいつ頃からか、二人が同じ演壇に立つことはなくなった。父親は父親、息子は息子で別々に講演会を催している。その経緯に関して、私の知ることは後で書くことにしたい。
 今、当日のプログラムをめくってみると ──

              開会の挨拶…… 太田邦彦
 講演「幸福の科学発足によせて」…… 善川三朗先生
          講演「幸福の原理」…… 大川隆法先生
              閉会の挨拶…… 前川節
                   司会…… 中原幸枝

 会は滞りなく進んだ。大川も中原も、今回は座談会のときより落ちついていた。
 いい講演会だった。広い会場が水を打ったように静まり返り、誰もが真剣に耳を傾けていた。子どもたちが騒ぎ回ることもなかったし、感極まって泣きだすなどということもなかった。
「今日は先生から、こんな色の光が発していた。私にはちゃんと見えたが、あなたにはあれが見えましたか」
 そんなことを自慢げに話しながら帰っていく人も、当時はまだいなかった。
 みんなが真摯に道を求めている。そういう引き締まった空気がピーンと支配していたのが、初期の講演会である。
 この夜の食事は、楽しい思い出として残っている。みんなが会の成功を喜び、次回はもっと盛りあげようと誓い合った。はじめて会から費用をいただいての会食でもあった。会員からの貴重な会費だと思うと、少し心苦しかった。しかし、その心苦しさにも私たちは次第に慣れていった。
 翌日は、また善川をホテルへ迎えにいき、首都高を羽田まで送った。一昨日の雪がまだあちこちに残っていた。講演会の成功に善川はとても満足しているように見えた。

 こうして私は三年半のあいだに、羽田と西荻窪を三〇回ほど往復しただろうか。それは決してイヤな仕事ではなかった。 〈幸福の科学〉 の発足時に、こうして誰にも見えないところでお手伝いできたことを、私は今でも誇りに思っている。



関連記事


     TB(0) | CM(0)


コメントの投稿










サイト内検索
新宗教「幸福の科学」に関する、教団側・批判側・マスコミの記事などを紹介しています。



キャッシュでキーワードがハイライト表示

Yahoo! JAPAN

  • ウェブ全体を検索
  • このサイト内を検索

最新記事
月別アーカイブ

>>全記事更新履歴



ワンコ・ニャンコ緊急ツィート コチラへ

http://spiruna.blog89.fc2.com/blog-entry-2609.html
犬猫リンク集