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2-4 〈幸福の科学〉 は幸せを科学したか?

2009/12/14 06:19  Category:「虚業教団」 関谷晧元

                    第2章  「神」は結婚を命じ給うのか?


  〈幸福の科学〉 は幸せを科学したか?

 やむなく私は妻との離婚話を急いだ。しばらく遠のいていた我が家へ重い足を向けた。次女の合格までは形だけでも夫婦でいようと決めながら、「一日も早く」と迫る夫を、父を、妻や娘たちは何と思っただろう。
 予想したことだが、妻は私の要求に態度を硬化させた。
「なぜ、そんなに急ぐの。急に除籍しろなんておかしいわ」
 しかし私は、神様の指示で中原と結婚することになったとは、どうしても言えなかった。仮に言ったとしても、信じてもらえたかどうか。
「こんなに急に無理を言われるなら、貰うものは思いっきり貰ってやるから。そうじゃなければ、絶対に離婚には同意しない!」
 妻はいきり立ち、叫びつづけた。冬だというのに汗をかき、その後頭部からは赤い炎がポッポッと燃えているのが見える気がした。

 あのときの妻はじつは菩薩ではなかったか、と思うときがある。菩薩という愛の仏は、ときには恐ろしい憤怒の顔をした不動明王の姿をとって現れ、手にした縄で人を縛り、剣で切り刻んでまで、その魂を救済するという。人の道に外れてはならぬと、妻は私に訴えていたのである。

 しかし悲しいかな、当時の私は、神の心が通じない愚かな女としか見なかった。
 こんなふうに私と妻が醜くケンカしている家の二階では、高校三年の次女が、間近に迫った大学入試のために捩り鉢巻で勉強していた。新築間もない日本家屋だったが、両親の口論は筒抜けだったに違いない。たぶん勉強も手につかなかっただろう。
 どんな気持ちで机に向かっていたかと思うと、今でも胸が痛む。これは中原も同じだったらしい。後々の結婚生活の中でも 「娘さんに申しわけない」 というのが彼女の口グセだった。

 娘のことを考え、早々に切り上げて会社へ戻った。苦しかった。苦し紛れに、私は思わず中原に電話した。
「こんなことをさせる神様は間違っていないか。あまりにも無慈悲だ。あなたから大川先生に、あと二ヵ月だけ待ってくれるよう伝えてほしい」
 すると中原は、昨日大川に言われたという言葉を私に伝えた。
「恭子さんの身にもなってみろ。彼女は両親の反対を押し切ってまで決意したんだ。早く会員に発表してもらいたいと心待ちにしている。関谷さんは、そのくらいのことが解決できないのか」
 そう責められて、中原も困っているということだった。

 大川はいつも中原を通して私と話をした。直接話そうにも、話せないように素早くお膳立てができてしまう。これは彼独特の、一種の処世術だった。
 この処世術は、会が現在のように巨大化してからも変わっていない。あのフライデー事件のときも、一人の事務局長を通して指令が下っていた。幹部こそいい災難である。指示を忠実に実行しようとして知恵を絞り、その結果がよければ、主宰の指導がよかったということになる。もし悪い結果が出たときは、末端会員の批判はその幹部に集まり、自分がツメ腹を切らされる。

 ご本人は奥にいて、滅多に顔を見せない。したがって、真実の姿は一般会員にはまったく見えない。そのほうが、確かに神秘的である。講演会の後の質疑応答でも、霊言を求められると、大川はよく 「安っぽくしたくないから」 と言って断っていた。霊言に安っぽいも高いもない。神秘というベールをまとうことが必要だったにすぎない。

 事実、最近の講演会では、そのベールの向こうの姿に向かって会員たちは喜んで感激の涙を流している。大川の写真がご本尊として拝まれる。大川という宗教的天才、いや組織づくりの天才の目論見が、計算どおり実現していると言ってもいいだろう。

 私たちの離婚話はこじれにこじれていた。
 妻は、世間で言うところの良妻賢母の典型だった。私の自慢である二人の娘を立派に育てたのは妻だと思えば、どんなに感謝してもし尽くせない。
 それにくらべ、私はどうだったろう。妻や子からすれば "得体の知れない宗教" に入れあげ、娘の入試直前に乗り込んできて、「一日も早く別れろ」 と迫る男。どう考えても言いわけのしようがない。家族すら思いやれない男が、 "与える愛" を説く〈幸福の科学〉の幹部であることがすでに間違っていた。

 とくに二番目の娘には思い出が多い。小さい頃から勉強嫌いで、「中学を卒業したらすぐに働くから」 と言い張っていた子である。テストの点数を見て、「これだとビリだな?」と私が尋ねると、「心配ないよ、トト。もう一人ナオミちゃんがいるんだよ」 と無邪気に笑っていた。
 そんな子が今、大学を目指して一生懸命勉強している。私はといえば、その勉強部屋の下で妻と大声でケンカしているのだ。娘よ、何という愚かなトトであったことか。たとえ両親が離婚しようと、子どもには愛され、尊敬されるトトでいたかったと思う。親としてあたりまえのその希望を、私は自らの手で砕いてしまったのである。

 こんな家庭の地獄化と時を同じくして、職場でも健康面でも次々と不幸が重なった。新しい年 (八八年) に入った正月八日。ちょっとした不注意で転倒した私は、したたか肩を打ち、鎖骨骨折で二ヵ月間もサポーターを巻いていなければならなくなった。独り暮らしだから、下着の着替えにさえ困った。
 夜はその肩が痛んで眠れない。籍のことは急がされる。妻とは激しいケンカがつづく。娘の受験も心配である。おまけに、仕事には今までのような勢いがなく、創業以来はじめて赤字になりそうな形勢だった。会の仕事に追われていた私と社員のあいだにはミゾが生じ、かつての楽しい職場は見る影もなくなっていた。もう、「泣きっ面に蜂」どころではなかった。

 このように私の状態が悪くなっていくのと反比例して、〈幸福の科学〉 の業務は次第に膨らんでいった。私の役目もどんどん増える。それでも会議の前後に大川を送り迎えするのは、相変わらず私の役目だった。私は片手で運転し、大川の乗り降りの際には、使える左手で後部座席のドアを開閉していた。

 私の全面的な譲歩によって、ようやく妻との離婚問題が決着した。籍を抜いたことを報告すると大川は非常に喜んでくれた。その慰労もかねてだろうか、大川の婚礼が近づいたある日、二つのカップルが新宿のホテルで食事をともにすることになった。
 主宰夫人となる木村恭子は、当時まだ東京大学の四年生だった。色白で鼻の高い、西洋風の顔だちだった。秋田県の医者のお嬢さんと聞いていたが、物静かで、おとなしそうな女性だった。

 とても印象深く覚えているのは、私の心をくすぐった恭子のひと言である。
「釈迦の時代の高弟たちも、みんながみんな家族と円満に別れて出家したのではないと思いますよ。それぞれが、関谷さんのように大問題を解決して自分の道を選び、生涯を懸けたのだと思います」
 Sekiya とネームの入ったボールペンを恭子から贈られた。さすが先生の選んだ人だと妙に感心した。

 「関谷さん、中原さんの年を知っていますか」
 大川が突然私に尋ねた。じつはそのときまで、私は彼女の正確な年齢さえ知らなかったのである。そんな二人が間もなく結婚する。思えば不思議なカップルだった。
「二〇代ではなさそうですね」
 と答えたのは、若い恭子の前で中原の年齢を云々したくない気持ちがはたらいたからだ。それを聞いて大川は、私たちがびっくりするほど大笑いした。そして、こんなふうにつづけた。
「三〇代……でもなさそうだしな」

 私はハッとした。一瞬の沈黙があった。だが、そんなことを気にする中原ではなかった。再び笑いが起きた。たわいなく笑い合う私たちは、おそらく誰が見ても幸せな二組のカップルだったろう。
 後になって、この場面を思い出すたびに、機転の利かなさを呪ったものである。「そう、四〇代でも五〇代でも、六〇代でもなさそうですね」 と、なぜとっさに出てこなかったのだろう、と。

 恭子が口にした釈迦の高弟との比較は、私をいい気持ちにした。正法流布に一生を捧げよう。大川先生を信じきっていこう。あらためてそう決心した。
 この単純さを、読者は笑うだろうか。
 一挙に押し寄せてきた不幸なできごと。家庭の崩壊、商売の衰退、社員との行き違い、肩の骨折などはすべて、私にこの道を進ませようとする神の導きに違いない……。ここに自分の天命があるのだと、無理にでも納得するほかなかったのである。
 幸福ではなかった。だから、なおさら幸福を科学する必要があった。



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