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4-1 「高橋信次」 はなぜ大川隆法に霊言したのか 

2009/12/14 06:26  Category:「虚業教団」 関谷晧元

 第4章  愛なき教団だから 「愛」 を説くのか


  「高橋信次」 はなぜ大川隆法に霊言したのか

 一九八八年の春、はじめて GLA から正式な抗議文が送られてきた。内容は、「繰り返しニセ信次先生の本を出されては困るから止めてほしい」 というものだった。それを読んだ私たちは、「なにがニセ信次だ!」 「信次先生の霊が語っておられるのだぞ」と大いに憤慨した。
 しかし、GLAが抗議するのもあたりまえだろう。

 八六年十二月に 『高橋信次霊言集』 を出して以来、大川は 『高橋信次の新復活』(八七年五月) 『高橋信次霊訓集』 三巻(同年六月、八月、十月) 『高橋信次の天国と地獄』(八八年一月) とたてつづけに高橋の霊が登場する本を出版していた。それ以降も 『高橋信次の新幸福論』 『高橋信次のUFOと宇宙』(以上二冊同年六月) 『高橋信次のユートピア論』(同年八月) 『高橋信次の大予言』(同年九月) 『高橋信次の心の革命』(同年十一月) 『高橋信次の愛の讃歌』(同年十二月)と続く。

 宗教学者の島田裕巳の調べによれば、その霊言集は一六冊になり、大川に降りた回数も七〇回になるという。この数は、ほかの霊とくらべて群を抜いて多い。 〈幸福の科学〉を特徴づける最も重要な高級霊なのである。

 GLA としては、当然心中おだやかではない。亡くなった自分たちの教祖、神とも崇める教団創設者が、こともあろうに何の関係もない他教団に出現し、生前には聞いたこともないような話をしだしたのだから。
 GLA というのは "God Light Association" の略で、一九六九年に高橋信次が設立した 「大宇宙神光会」 を母体とする。高橋は霊界と自由に交信することができ、その教えでは、顕在意識と潜在意識との間にできてしまった想念帯の曇りを反省によって取り去れば、誰でも神とストレートにつながると説いている。

 この思想は GLA の枠を超え、精神世界に関心を持つ人々に少なからぬ影響をおよぼした。善川や大川も例外ではなかった。大川の 『太陽の法』 によると、彼がはじめて霊的体験をしたのは高橋の 『心の発見』 を読んでいる最中だったという。
 しかし高橋は、わずか七年の後の一九七六年、その全盛期に自らの予言通り突然世を去った。残されたのは、当時まだ一九歳のお嬢さん、高橋佳子である。偉大な指導者を失ってGLAは混乱し、分裂を重ねた。一時は五〇万とも言われた信者や高橋の信奉者は、宙に迷うかたちになり、その数は一万数千にまで激減している。

 そんなとき、不意に別の教団で開祖の霊がしゃべり出した。むろん、宙に迷っているGLA信者や信次ファンを、取り込もうとする大川の戦略でもあったろう。
 たとえば、中原幸枝などは、敬愛する高橋信次の面影を求めて大川に近づいた一人であった。というよりも中原の存在が、大川に高橋信次の霊言を思いつかせたと言ったほうがたぶん正しい。もっと正確に言えば、〈幸福の科学〉 の高級霊団の中心である高橋の霊は、中原の求めに応じて霊言を始めたのである。

 ここで大川と中原の出会いについて触れておこう。
 中原は、高橋の存命中からのGLA信者だった。幹部のような特別の立場ではないが、一会員としてずいぶん可愛がってもらったらしい。高橋信次という人は、信者と気軽に接することを好んだようだ。このあたりは、一般会員の前にめったに現れず、常に本部の奥にいて神秘のベールにくるまっていたい大川とはずいぶん違った。自分の霊的能力、信仰の深さに対する確信の差だろうと言ったら、主宰先生にはこっぴどく叱られそうである。

 講演会か何かの後、幹部との面談待ちをしているところへ、思いがけず高橋がひょっこりやってきて、「次の人は誰?」と声をかけた。たまたま "次の人" が自分であったおかげで信次先生の知遇を得た、というようなことを彼女は語っていた。
 中原の父親がガンで余命幾ばくもないと宣告されたときは、ガンにはクマザサの葉が利くというので、わざわざ自分でとってきて届けてくれたという。

 それで思い出すのが、大川の"顔見せ興行"である。あれほど一般会員との接触を嫌っていた大川が最近になって、会員と親しく接する機会を正月に設けた。一人五分前後の持ち時間で、本尊はお顔を拝みたい人がベルトコンベアー式に次々と入れ代わる。しかし、そのためには何万かの拝観料を包まなければならない。この話を聞いて、私は暗澹たる気持ちになった。

 大川の霊言集を読み、中原はそこに亡き高橋信次の思想と通い合うものを感じたらしい。これは決して不思議ではない。父親の善川三朗が高橋の影響を受けていたし、本人も最初の霊的体験は 『心の発見』 を読んでいる最中だったと書いている。霊言集の中に、GLAの元信者が、今は亡き教祖と似たものを感じたとしても少しもおかしくない。
 そこで中原は、「大川隆法というこの霊能力者になら、信次先生の霊が降りるかもしれない」 と考えたのである。歴史に"もし"はないという。 しかし、敢えて問おう。 もし中原がそんなふうに考えなかったら、はたして〈幸福の科学〉は生まれただろうか。

 亡き高橋の面影を求めて、中原は霊言集の出版元である潮文社を訪ねていく。何度目かに訪ねたとき、ちょうど 『孔子の霊言』 の出版のため大川が上京してきていた。
「信次先生のご逝去以来、ようやくの思いで真に心の師となる人を見つけた」
〈幸福の科学〉 の発足前後に、中原はよくそう言っていた。

 中原幸枝とのこの出会いが、大川隆法に 『高橋信次霊言集』 を書かせたと私は推測している。なぜなら、潮文社から最後に出たこの霊言集は、それまでの七冊とはあまりにも違っているからである。まず、善川というインタビュアーがいなくなり、大川の ── いや霊の独白に変わった。また、高橋信次という名前じたい、それまで霊言していた日蓮や空海、キリスト、ソクラテス、孔子、坂本龍馬、卑弥呼などの中に置くと、明らかに異質なものを感じる。歴史の教科書には必ず登場するような有名人の霊言集がつづいていたところへ、ほんの一握りの人しか知らない、しかも死後一〇年にしかならない人物が突然出現したのである。
 内容のほうも 「集まれ、団結せよ」 と説く、アジテーション風に急変していた。

 霊言集の日付によると、トーメンを退職した翌日の七月十八日に、「高橋信次です」と高橋の霊がひょっこり降りてきたことになっている。                           
 大川は 『高橋信次霊言集』 のまえがきで、次のように書いている。
「一九八六年七月、私が、神理伝道のために、勤務していた総合商社を退職するや否や、高橋信次氏からの、ご自身の現在の考えを世に問いたいという、強烈な願いが一条の光となって、私の胸を貫きました。私は同氏の熱意に打たれて、ついにこの書を世に問う決断を致しました」
 しかしこうして見てくると、中原の影響とまでは言わないが、彼女との出会いをきっかけとして 『高橋信次霊言集』 があらわされたと結論するしかない。しかも、中原を前にしてテープに吹き込まれたものとなれば、この霊言集の産みの親はまさしく中原幸枝なのである。



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